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私も参加した海外登山の記録です。

シルクロードの山・党河南山に挑んだ1994年の日本隊
1994年、日本の登山隊が中国・青海省と甘粛省の境界にそびえる党河南山(トンホーナンシャン)の初登頂に成功した。この一連の挑戦は当時の新聞でも連載として大きく取り上げられたが、改めて当時の資料を読み返すと、現地での壮絶な行動、日中の文化交流、そして未知の山域に挑むことの重みが鮮明に伝わってくる。本記事では、当時の記録写真を参照しながら、その背景や登山隊の歩み、現地での出会いを含め、党河南山初登頂の全体像をまとめていく。

党河南山とはどのような山だったのか
党河南山は中国・青海省北東部から甘粛省南部に広がる山系で、標高は5,000〜5,600メートル級の峰が連なっている。シルクロードの北側ルートに位置し、古代から東西の交易路を見守ってきた存在でもある。とはいえ、当時は海外隊による調査がほとんど進んでおらず、山岳地図にも詳細な地形が載っていない未踏峰の連続地帯だった。日本隊は現地政府から許可を受け、長年の夢であった“登山OK”の吉報を受けて遠征の準備を進めた。

遠征隊を支えた現地の人びととの交流
出発拠点となった敦煌では、かつてシルクロードを往来した商隊の風景を思わせる砂漠の街並みが広がっていた。日本隊は現地関係者の協力を得ながら補給物資を整え、青海省側から党河南山へアプローチしていく。新聞記事にも写されているように、車両での移動は河床を越え、悪路を進む過酷な道のりであった。さらに、地域の住民たちは登山隊を温かく迎え、夜には酒を酌み交わし歌声を響かせる和やかな交流も生まれた。この文化的な交流は、単なる登山遠征以上の意義をもたらしたと言える。

ベースキャンプ設営と5,000メートル級氷河帯の壁
BC(ベースキャンプ)は乳子溝の河畔に設置された。周囲は険しい岩壁に囲まれ、上部には巨大な氷河が広がる。写真に写る隊員たちは大型リュックを背負い、荷揚げのために同じ斜面を何度も往復している。標高はすでに4,000メートルを越え、わずかな移動でも息が切れる状況だった。
氷河は複雑に裂け、クレバスも口を開けている。当時の写真にあるような白い斜面の広がりは美しくもあり、同時に隊員たちに強い緊張を強いた。ルートを切り開くアイスアックスの音と、吹き付ける強風だけが響く世界。新聞では「注意深く一歩、一歩」と記されているが、その一歩が生命線だったことは想像に難くない。

第一次アタック隊の前進と天候との駆け引き
登頂に向けた第一次アタックでは、隊員たちは雪煙が舞う稜線を進んだ。視界は時折白く閉ざされ、風は体温を一気に奪っていった。荷揚げされた食料や燃料は限られており、停滞が続けば登頂どころか撤退も視野に入れざるを得ない。そのため天候の“隙”をいかに捉えるかが鍵となった。

C1、C2と高度を上げるにつれ、周囲の山々が雄大な姿を見せ始めた。西にはカルマン山系、東には連なる白い峰々。登山隊のメンバーは、これまで誰も立ったことのない場所から広大な世界を眺める喜びを味わいながらも、決して気を緩めなかった。氷河の裂け目、急斜面、強風……その全てが挑戦者の前に立ちはだかっていた。

決定的な登頂の日 ― ついに頂を踏む
頂上アタックの日、新聞記事に掲載された写真には、3名の隊員が登頂旗と日の丸を掲げている姿が写っている。凍てつく頂での達成感は、隊員全員の努力の結晶だったと言える。登頂に成功した瞬間、肩を抱き合い涙を流す隊員もいたという。標高5,600メートル前後の未踏峰を攻略することは、日本国内の登山とは比較にならない困難が伴う。だが隊員たちは、現地の仲間たちと力を合わせ、この偉業を成し遂げた。
登頂地点からの眺めは言葉では表しがたいほど広大で、遠くには果てしない雪原と山脈が広がっていた。シルクロードを越えてきた隊員たちは、その瞬間、歴史の旅人たちと同じ風景を共有したことになる。誰の踏跡もない頂に残した一歩は、確かに新しい歴史の始まりとなった。


“母なる川”を見つめる旅でもあった
党河南山を源に流れ出す党河は、地域にとって“母なる川”と呼ばれ大切にされてきた。記事にも大きく取り上げられているように、春には川幅いっぱいに水が流れ、まさに生命線として人びとの生活を支えている。隊員たちが河畔で見た流れは静かで力強く、自然と人間のつながりを強く感じさせた。この遠征は山を登るためだけの旅ではなく、この地に流れる歴史や暮らしを理解する旅でもあった。

日本隊と現地隊の心をつないだベースキャンプでの時間
登頂を果たすまでの間、BCでは日本隊と中国側のスタッフとの交流が続いた。新聞記事の一枚には、テントを背景に食卓を囲む隊員たちの姿が写っている。互いの文化を語り、歌い合い、時には冗談を交わす。その穏やかな時間が、過酷な遠征の日々に確かな支えとなった。
言葉の壁があっても、共に過ごし、笑い合うことで心の距離は縮まっていく。登山隊にとって、こうした交流は成功のための“見えない力”だったと言えるだろう。

党河南山初登頂が残したもの
1994年の党河南山初登頂は、単なる登山の成功ではなく、国境を越えた友好、歴史と自然への敬意、そして冒険心の結晶だった。隊員たちが残した記録は、現地の山岳地域にとっても貴重な資料となり、後の登山隊の安全確保にも大きく寄与した。
何より、この遠征が示したのは「未知に挑む勇気」そのものだった。地図に線すら引かれていない山域に踏み入り、自然と向き合い、人と交わり、それらすべてを積み重ねて登頂を果たした隊員たちの歩みは、今も多くの登山者や冒険者に刺激を与え続けている。

現代に受け継がれる1994年隊の精神
今日、GPSや衛星写真で山の様子を知ることは容易になった。しかし、1994年当時は紙地図と現地での情報だけが頼りだった。隊員たちは不確定要素の多い環境で判断し続け、互いを支えながら進んだ。その“仲間を信じる力”と“未知を恐れない姿勢”は、今も登山や冒険における普遍的な価値であり続ける。

この遠征の記事写真には、凍える稜線を踏みしめる隊員の姿、氷河を前に佇む影、テントで語り合う光景などが残されている。それらは「挑戦した者だけが見る景色」が確かに存在することを物語っている。
終わりに ― 再びシルクロードの風を感じるために
党河南山初登頂から30年が過ぎようとしている今、当時の記録を振り返ることは、新たな時代における冒険の意味を考えるきっかけになる。山は今も変わらずそこにあり、風雪に磨かれた峰々は静かに人びとの挑戦を待っている。
この記事が、1994年隊の足跡を改めて知る機会となり、そして現代の冒険者たちにとって新たな一歩を踏み出す追い風となれば嬉しい。シルクロードの山々は、今もなお語られざる物語を抱えて立っている。次にその物語を紡ぐのは、もしかしたらあなた自身かもしれない。

